事象平原の彼方に

笑いの本質構造論 いじめの問題 コミュニケーションと力 我思う故に我あり、よりも

コミュニケーションと力、いじめの問題

コミュニケーションと力の関係について述べる。
「コミュニケーションの本質は言葉であって力ではない。
『力によるコミュニケーション』の中では言葉はその意味を失う。」

 

説明する。
コミュニケーションにおいて、語調や態度で力を示しながら言葉を伝えると、
言葉を受け取る側はその語調や態度に構え警戒してしまい、
認知的不協和を感じてしまい(態度に警戒するから言葉にも不信感を感じてしまい)、
その言葉の意味をストレートには認識し得ない、ということである。
 力が強いと言葉とは逆の意味で受け取られる場合もあり得る。
(この場合は逆ギレにもなる場合もあり得る、ということである。)

 

これは子供に対するコミュニケーションの場面で大きな意味を持つ。

親が子供を力でもって厳しくしつける・教育する・指導する場合。
教師が生徒を力でもって厳しく教育する・叱責する・指導する場合。

問題は、人格形成・成長の段階で力の加わった態度でしか
コミュニケーション出来ない親に育てられた子供の心である。
 子供の心は孤立し置き去りにされる。
そこで子供の心は健全に育っていくだろうか?

私は、いじめの加害者の一部はこのように孤立し置き去りにされた心を
持っているのではないか?と考える。

いじめの被害者の一部も、親との心の交流が少なく孤立している場合も
あるだろうと考える。

ニュースなどで、子供が自殺や不登校になって初めて、
子供がいじめられていたなどという事をその親が知る、
という場合が多いことを知らされる。

子供と親に会話があり普通のコミュニケーションが取れていれば
思春期・青春期であっても、いじめがあれば親に相談などをして
親はいじめに気付くはずである。
そうすれば親は子供の代弁者となり、行動をとり、いじめに立ち向かい、
子供をいじめから救うことが出来るはずである。
(昨今の教育機関関係は自己保身だけに終始し、頼りにならないそうで、
探偵などを通して警察を加害者の間に入ってもらい解決するそうである。
そういうご時世のようである、ニュースなどを見る限りにおいて。)

 

親や教育者などが力を持ったコミュニケーションを行う原因の多くは、
「コストの削減」、「手間をかけたくない」、「ロジックの弱さをごまかしたい」
から、という場合が多いであろう。
その言葉の意味の正当性を優しく説諭するのが面倒・コストがかかるからなのであろう。

また、親自身がそもそもそのように育てられ、暖かなコミュニケーション関係を
知らないから、という場合もあるであろう。
コミュニケーションの分断が親子間で連鎖しているのではないかと考えられる。

 

親は子供を「勉強するように」(代表例)などのコミュニケーションの伝達の際に、
力を強くして叱ったりするだけでなく、10回に数回位は、
その理由などを優しく説諭して伝えて、意味をストレートに伝えるようにすべきである。

 

 

 

コミュニケーションと力の関係をもっと俯瞰して考えてみる。

以上に述べていた論理は、立場の強いものから弱い者へ、のコミュニケーションの場合である。
そこで強い力を使って、コミュニケーションをしようとする場合である。
ここで強い力を使うのではなく、対等、もしくは弱い力(同情させるような論理)で
コミュニケーションをすればよいのではないか?という提言である。

 

立場の強弱に重なりコミュニケーション自体の強弱、という2つの場合分けが考えられる。

 

最初に述べた文:
「『力によるコミュニケーション』の中では言葉はその意味を失う。」
は、立場の弱いものから強いものへのコミュニケーションでは、逆に
「『力によるコミュニケーション』の中で言葉はようやくその意味を持つ。」
という文に切り替わる。

どういうことかというと、デモやストライキなどの場合である。
弱い立場の大衆の言葉は、団結して力を用いないと、上の立場のもの達に届かないからである。
そこでは「力によるコミュニケーション」の中で
言葉は初めて意味を持ちストレートに相手側に届くことになる。

 


このコミュニケーションの論理は国際的なコミュニケーションでもある程度適用できよう。
経済的制裁など力だけの圧力で、他国の方針を変えようとするコミュニケーションは、
その力により意味が正しく伝わらず、相手国は萎縮したり反発したりしてしまいかねない。
慎重に力によるコミュニケーションを用いなければならない。
(実際は相手国側が、独裁体制などで、コミュニケーション以前に
問題を抱えている場合が多いようである。)


警察・防災・軍事などにおける指導・コミュニケーションの場合を考えてみる。
そこではコミュニケーションにおける言葉は「信号」としての要素を強く持つ。
そのため信号は強い方が情報としては価値がある。
そのため力が強まっても立場の強弱に無関係に、
言葉は意味を失わずにストレートに伝わる、という場合がある、と言えよう。

 

 

このコミュニケーションといじめの関係の論題は
ずいぶん前に「いじめ」について思索していたときに思い付いた。


(以上の論題はデリケートな感じがするため加筆修正する可能性があります。)

(2020/04/18(土):一部削除と修正)

以上。