事象平原の彼方に

笑いの本質構造論 いじめの問題 コミュニケーションと力 我思う故に我あり、よりも

Intel「Core Ultra プロセッサ」は映画「ターミネーター」のAIチップの先駆けになるのか?

①夜、眠る前にこの発想の文章を思い付き、
まだネットに出ていなかったようなので、
自分で考えてみようと思ったら、
寝付きが悪くなりましたw
(思い付いたことがネットでサーチされないと、
ブログネタにしようとする傾向・クセが
私にはあります。)

②シンギュラリティという点で考えると、
クライアントCPUレベルのAIは、
リソースのずっと大きいサーバのコンピュータには
かなわないだろうから、
シンギュラリティは初めはサーバ側のコンピュータで
起こるのでしょう。

③AIが自我を持つ、という話はシンギュラリティとは
別の次元の話だろうと思う・・・?
知性AIと自我存在AIは別の話だろうと思う・・・?
もしそうなら、ここでCore Ultraプロセッサにも
自我存在AIになる可能性が残されている、
と言えるのかも・・・

AIに自我を持たせるには、
「個体としての自己存在」の、
(人間以外の他の生命体にもある)無意識レベルの知覚と
(人間特有の言語)意識レベルの認識の両方が
必要だろうと思われる。
それを背景にした言語意識存在が自我ということだろう。

コミュニケーション・会話の入出力能力だけで
自我が存在するというのなら、
もう今のAIでも存在する、ということになり、
それは少しおかしいだろう。

「個体としての自己存在」に必要なのは、
知覚感覚の総体か?
五感のうち、味覚・嗅覚はあまり必要ないと思われる。
視覚はカメラで、聴覚はマイクで、既に実装されている。
キーボードなどからの言語などの入力や、
ネットとの入出力、ディスプレイ出力、
といった生命にはない入出力もPCは備えている。

そうなるとあと必要なのは、触覚知覚の総体か?
・・・それこそ直前の記事で書いた
「自己身体存在感覚」
(一体の生命身体存在を背景に持つ、
とても大きなデータ量を持つ存在感覚)
であって、一つの閉じた(「私」という自我存在に必須の)世界だと思うが、
・・・それをコンピュータに実装させる方法は・・・
・・・私の思考能力では思い付かない・・・
とりあえず「触覚」を閉じたコンピュータ空間の周りに
無数と思える程、配置・接続するようにするのか?
・・・少し違うような感じがする・・・

④それとも「楽観的に?」考えて、
知性AIが十二分に内部の質と量のリソースを満たせば、
シンギュラリティの辺りで、
「自動発生的に?」「自我に目覚める」のか?
・・・触覚などの感覚がどうしても必要なように私には思えますが・・・
・・・私の思考能力を超えていて分かりません・・・

現在までに考えた内容は以上です。

我思う故に我あり、よりも・・・

「我この世に数十キログラムの身体として存在することを自覚する、故に我あり」
と考えた方が自己存在認識として合点がいくのでは?、
と随分昔の青年時代に自分で考えました。
その考えに自分で納得し、今でも自分の精神存在を
身体存在を基盤にして考えています。
形而上の閉じた世界だけでは虚しい、おかしい、と思う次第です。

「現在の一般の人達」があまり意識していない
「自己身体存在感覚」をしっかりと意識することは、
自己認識の深化にとって有意義である、
と言えると思っています。
・・・
この記事をしっかり書き上げるのは、
私のブログの更新ペースは遅いので
数ヶ月~1年以上?かけて空けるかもしれず、
妥当性は各自で考えてみてもらいたいと思います。

関連項目として「自律訓練法」を紹介しておきます。
自律訓練法は、最近よく聞く「マインドフルネス」に含まれる、
さらに狭義の概念のようで、昔からある思考法です。
知らない人は、ネットの「NHK健康チャンネル」で
自律訓練法」と検索すると、分かりやすい1件が表示されます。
もっと詳しく知りたい人はWikipediaなどで調べて下さい。
実践する際には、注意事項があるのでそこには注意して下さい。

(2024/1/3(水)と1/7(日)に少し更新)

ウェザーニュースLiVEには面白いキャスターが多い

一般にメディアの女性キャスターはきれいな人が多いけれど
ウェザーニュースLiVEのキャスターには
「面白さ」も要求されているのかも・・・(あくまで推測です)
YouTubeの切り抜きなどの動画がよく出来ています。
○駒木結衣キャスターはサザエさんに似ている?
 「おきゃんなおゆいはサザエさん似?」
 ・・・サザエさんよりも若々しくて知的で面白いです。
 お薦めのYouTubeの切り抜きは、次のようなもの等:
    「駒木結衣、タメ口発動の瞬間」(55秒):https://www.youtube.com/watch?v=yQqqFqbdQHM
○高山奈々キャスターは安定の笑顔 :-)
 現在、産休&育休中です。
 お薦めのYouTubeの動画は、次のようなもの等:
    「777会見」(音量注意)(1分43秒):https://www.youtube.com/watch?v=YKVP6WRpEUQ
○他にも面白いキャスターが多くいるので興味があればYouTubeの切り抜きを見ればいいと思います。
まあチャンネル登録者数が現在112万人を超えている位だから多くの人がもう知っているのでしょうが。

(このブログの他の記事とはかけ離れた内容だけれど、
ネットで引っかかるにはここがいいかな、と思った。
まあブログだから他に差し障りがなければ基本自由だよね。)

コミュニケーションと力、いじめの問題

コミュニケーションと力の関係について述べる。
「コミュニケーションの本質は言葉であって力ではない。
『力によるコミュニケーション』の中では言葉はその意味を失う。」

 

説明する。
コミュニケーションにおいて、語調や態度で力を示しながら言葉を伝えると、
言葉を受け取る側はその語調や態度に構え警戒してしまい、
認知的不協和を感じてしまい(態度に警戒するから言葉にも不信感を感じてしまい)、
その言葉の意味をストレートには認識し得ない、ということである。
 力が強いと言葉とは逆の意味で受け取られる場合もあり得る。
(この場合は逆ギレにもなる場合もあり得る、ということである。)

 

これは子供に対するコミュニケーションの場面で大きな意味を持つ。

親が子供を力でもって厳しくしつける・教育する・指導する場合。
教師が生徒を力でもって厳しく教育する・叱責する・指導する場合。

問題は、人格形成・成長の段階で力の加わった態度でしか
コミュニケーション出来ない親に育てられた子供の心である。
 子供の心は孤立し置き去りにされる。
そこで子供の心は健全に育っていくだろうか?

私は、いじめの加害者の一部はこのように孤立し置き去りにされた心を
持っているのではないか?と考える。

いじめの被害者の一部も、親との心の交流が少なく孤立している場合も
あるだろうと考える。

ニュースなどで、子供が自殺や不登校になって初めて、
子供がいじめられていたなどという事をその親が知る、
という場合が多いことを知らされる。

子供と親に会話があり普通のコミュニケーションが取れていれば
思春期・青春期であっても、いじめがあれば親に相談などをして
親はいじめに気付くはずである。
そうすれば親は子供の代弁者となり、行動をとり、いじめに立ち向かい、
子供をいじめから救うことが出来るはずである。
(昨今の教育機関関係は自己保身だけに終始し、頼りにならないそうで、
探偵などを通して警察を加害者の間に入ってもらい解決するそうである。
そういうご時世のようである、ニュースなどを見る限りにおいて。)

 

親や教育者などが力を持ったコミュニケーションを行う原因の多くは、
「コストの削減」、「手間をかけたくない」、「ロジックの弱さをごまかしたい」
から、という場合が多いであろう。
その言葉の意味の正当性を優しく説諭するのが面倒・コストがかかるからなのであろう。

また、親自身がそもそもそのように育てられ、暖かなコミュニケーション関係を
知らないから、という場合もあるであろう。
コミュニケーションの分断が親子間で連鎖しているのではないかと考えられる。

 

親は子供を「勉強するように」(代表例)などのコミュニケーションの伝達の際に、
力を強くして叱ったりするだけでなく、10回に数回位は、
その理由などを優しく説諭して伝えて、意味をストレートに伝えるようにすべきである。

 

 

 

コミュニケーションと力の関係をもっと俯瞰して考えてみる。

以上に述べていた論理は、立場の強いものから弱い者へ、のコミュニケーションの場合である。
そこで強い力を使って、コミュニケーションをしようとする場合である。
ここで強い力を使うのではなく、対等、もしくは弱い力(同情させるような論理)で
コミュニケーションをすればよいのではないか?という提言である。

 

立場の強弱に重なりコミュニケーション自体の強弱、という2つの場合分けが考えられる。

 

最初に述べた文:
「『力によるコミュニケーション』の中では言葉はその意味を失う。」
は、立場の弱いものから強いものへのコミュニケーションでは、逆に
「『力によるコミュニケーション』の中で言葉はようやくその意味を持つ。」
という文に切り替わる。

どういうことかというと、デモやストライキなどの場合である。
弱い立場の大衆の言葉は、団結して力を用いないと、上の立場のもの達に届かないからである。
そこでは「力によるコミュニケーション」の中で
言葉は初めて意味を持ちストレートに相手側に届くことになる。

 


このコミュニケーションの論理は国際的なコミュニケーションでもある程度適用できよう。
経済的制裁など力だけの圧力で、他国の方針を変えようとするコミュニケーションは、
その力により意味が正しく伝わらず、相手国は萎縮したり反発したりしてしまいかねない。
慎重に力によるコミュニケーションを用いなければならない。
(実際は相手国側が、独裁体制などで、コミュニケーション以前に
問題を抱えている場合が多いようである。)


警察・防災・軍事などにおける指導・コミュニケーションの場合を考えてみる。
そこではコミュニケーションにおける言葉は「信号」としての要素を強く持つ。
そのため信号は強い方が情報としては価値がある。
そのため力が強まっても立場の強弱に無関係に、
言葉は意味を失わずにストレートに伝わる、という場合がある、と言えよう。

 

 

このコミュニケーションといじめの関係の論題は
ずいぶん前に「いじめ」について思索していたときに思い付いた。


(以上の論題はデリケートな感じがするため加筆修正する可能性があります。)

(2020/04/18(土):一部削除と修正)

以上。

一人両手で1キビカウント(1~1024カウント)(0~1023カウントと考える人もいる)(・・・ついでのアナロジーとしてマグニチュードの数量の理解も)

一般に指でモノを数えるのは、片手で5つ、両手で10までですが、
2進法で数えれば、片手で32、両手で1024まで数えられます。
YouTubeなどを見れば数え方は分かります。)
指1本で2進法で1bitで、両手で10本だから2の10乗で1024ということです。
(但し実用的とは言えない数え方。)

1024は1キロとは正確にはいえない。
キロ(K)、メガ(M)、ギガ(G)などはSI単位系で
10の3乗毎に正確には使われる単位で、
2の10乗毎に決められている単位系は「2進接頭辞」というようです。
(Wikipediaなど参照のこと)
その単位系では2の10乗毎に、Ki(キビ)、Mi(メビ)、Gi(ギビ)などとなる。

人が一人増える毎に1キビ、1メビ、1ギビ、などと数えられる単位がちょうど
2進接頭辞の単位毎に綺麗に対応するが、
概念上そうなるだけで、ほとんど実用にはならない。

一人で1024、約千の単位に対応するというと、
千手観音がなにか関係ありそうに思うが特に関連はないだろう。

言えることは、「一人両手で1キビカウント出来る」ということ。

 

2020/08/06(木)~2020/08/17(月)題名修正し文章を追加。
2022/11/20(日)~2022/12/11(日)題名修正し文章を修正。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「両手_102・・・」でググると、
1~1024カウントの記事もあるが、
0~1023カウントの記事の方もヒットするようである。

情報数学的に「5bit(片手)、10bit(両手)で表現できる整数の数字の範囲を述べよ」
と問われれば、
「0から31まで」、「0から1023まで」と答えることになる。
「1から32まで」、「1から1024まで」と答えると×になるだろう。
(補数の考えの方は省略する。)


但し、「数える」(カウント)する場合の概念においては
ゼロからは普通数えないものである。
(ただ、カウントダウンの場合ならゼロは必要になる。)

だから私は片手で数を数える体操では、1から32までを数えている。
(両手同時に、折る方法と開いていく方法、親指からと小指からの方法、
の計4通りの場合で手で数えられる。
慣れている場合の方法なら32カウントまで10秒程で数えられる。
指と頭の体操になりよいと思う。)

片手で数える場合は、
1~32カウントと考えても、0~31カウントと考えても
どちらでもよいと思う。
両手で数える場合も、
1~1024カウントと考えても、0~1023カウントと考えても
どちらでもよいと思う。
数学ネタであって厳密に決められている訳ではないから
読み手の個人が自由に判断してよいと思う。
私は前者の考えに1票である。
関孝和氏の著作の本でも「両手で1024まで」としているようだし。
ネットでは後者の考えが多いようである。

2進法を学び始めた方なら、ネタとしてではなく、
指を折り曲げて数えるのは2進法の理解に役立つだろう。
(その場合でも片手でほぼ足りると思うが)

 

2023/12/31(日)題名追加修正し以下の文章を追加。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ついでに、アナロジー(類推)で容易に覚えられる知識として、
以下の事柄があります:
マグニチュードが2異なると地震のエネルギー規模は
1000(1キロ)倍異なる。(1024ではない)」

1024と1000が近い数字なので逆算して対比してその詳細が覚えられます。
マグニチュードが 1異なると、約32倍、規模が異なる。
        (1000^(0.5)=31.6・・・)
        5bit/10bitに近い値(片手指5本に近い)
マグニチュードが0.2異なると、約2倍、規模が異なる。
        (1000^(0.1)=1.99・・・)
        1bit/10bitに近い値(指1本に近い)
マグニチュードが0.1異なると、約1.4倍、規模が異なる。
        (1000^(0.05)=1.41・・・)
        1bit/10bitのさらにその平方根に近い値(2の平方根に近い値)

このように地震のエネルギー規模のマグニチュードの数量の知識を、
10bit(1024)の変化に合わせて対比して容易に覚えられます。

以上です。

平成と西暦の素因数分解

西暦    西暦の素因数分解  平成  (平成年の素因数分解は省略)

1989  3×13×17     1

1990  2×5×199     2 (素数)

1991  11×181     3 (素数)

1992  2×3×83      4

1993  (素数)        5 (素数)

1994  2×997      6

1995  3×5×7×19    7 (素数)

1996  2×499      8

1997  (素数)        9

1998  2×3×37    10

1999  (素数)        11 (素数)

2000  2×5        12

2001  3×23×29    13 (素数)

2002  2×7×11×13   14

2003  (素数)        15

2004  2×3×167    16

2005  5×401       17 (素数)

2006  2×17×59    18

2007  3×223     19 (素数)

2008  2×251     20

2009  7×41      21

2010  2×3×5×67     22

2011  (素数)        23 (素数)

2012  2×503       24

2013  3×11×61    25

2014  2×19×53    26

2015  5×13×31    27

2016  2×3×7      28

2017  (素数)        29 (素数)

2018  2×1009     30

2019  3×673      31 (素数)

 

平成の元号が終わったのでまとめてみました。

西暦の素数年と、小さな数で綺麗に素因数分解出来る年が少ないのが面白くみえる。

因みに次に来る西暦の素数年は2027年で結構先になる。

 

追記修正:(2023/12/31(日))

素数が重なる年(4回)の主な大きな出来事について:

1993 :(特になし)

1999 :(特になし:(一応「ノストラダムスの大予言」の年))

2011 :(3月に「東日本大震災」あり)

2017 :(特になし)

別に、ノストラダムスの予言と大震災が関連があるということではなく、

単なる数字の綾でしょう。

 

以上です。

アンゴルモアの大王

自分的には「Angolmois」(アンゴルモア)を

「AngelMore」(エンジェルモア:天使よもっと)と

1999年より前から解釈していたが、当然何も起きなかった。

 

しかしネットでもAngelMoreとの解釈が皆無のようなので

ここに書いておくことにする。

 

新世紀エヴァンゲリオン的に解釈を広げると、

使徒(Angel)のような存在が次々と(More)現れる、

という現象になるのか。

 

2020/05/15(金)に、「Angolmois」の綴りと「エンジェルモア」の片仮名表記を追加。


以下のように文章追加などの修正:(2022/07/30(土))

1999年以前に公にしなかったのはブログのような匿名で広い公の場がなかったことと、
雑誌などに投稿するにしても、「何かが起きる」側の人間になりたくなかった、
その側に加担したくなかったからである。
自分は慎重な方の人間だと思っている。
まあ「エンジェルモア」の視点は今になってみれば
それ程目新しい連想とも思えず、
小学生でも思い付いていた人がいるかもしれない。
ただ「公の場に残す」ことに意味を感じた。

新世紀エヴァンゲリオンとのリンク解釈は
21世紀になってからだったかもしれないと思う。
1999年以前にTVや
映画(酷くグロくてトラウマのようになったもの)
を見ていたけど。
シン~で終わって、俯瞰してみても、
内容がイマイチよく分からないアニメだったように感じる。
画力・迫力は凄いとは思うけれど。